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徳島県阿南市|室町幕府の14代将軍は徳島出身の「阿波公方」!県内に残るゆかりの地を訪ねて

雑記

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、名だたる戦国武将のみならず珍しく室町幕府の将軍がしっかり絡んでの戦国時代が描かれていますよね。

向井理さん演じる13代将軍・義輝(よしてる)と滝藤賢一さん演じる15代将軍・義昭(よしあき)は比較的有名な人物ですが、13と15…当たり前ですが間には14代将軍がいるわけで。

今回は、皆さん14代将軍って誰か知ってますか?というお話です。徳島県民にこそ知ってほしい、阿波生まれの室町幕府将軍のこと🥺

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幻の将軍「阿波公方」

まず、「阿波公方」について簡単に💁‍♀️

華やかな時代を誇った室町幕府も終わりに近づくと、諸大名が入り乱れて権力を争う戦乱の世となりました。
足利将軍家の威光も昔話となり、争いの名目に利用されるのみ。
第十一代将軍・義澄よしずみの実子にして第十代将軍・義稙よしたねの養子となった足利義冬よしふゆも、大きく動く歴史の波にあらがうすべを持ちませんでした。
淡路に落ち延びた義冬は、阿波細川氏に迎えられて、足利家と由縁の深い天竜寺領であった平島の地に渡りついたのが天文三年(一五三四)。
ここに阿波公方二七十年の歴史が幕を開けるのです。
義冬の息子・義親よしちか(のちに義栄よしひでと改名)は阿波の有力大名に助けられ、病気の父に代わって上洛を企て、
室町第十四代将軍となりますが、在位七ヶ月にして織田信長にその座を追われました。天下は織田、豊臣、そして徳川へと移り、公方一族の上洛の夢は一切、絶たれてしまいました。
江戸時代に入ってからは、名門の血筋ゆえ権力者に疎まれましたが、公方一族は決して誇りを忘れずにふるまい、文化二年(一八〇五)に九代公方義根よしねがこの地を去るまで土地の人々に敬愛されて過ごしたと伝えられています。

(阿波公方民俗資料館前「面影道」より引用)

室町幕府って初代将軍・足利尊氏とか金閣寺を作った3代目・足利義満くらいしかピンとくる名前がなくて、誰の子で誰の末裔で…って言われてもよくわかんないですよね😗

とくにこのあたりの歴史と登場人物はややこしいので、理解するのがなかなか…💦

「応仁の乱」って覚えてますか?1467年から1478年まで続いた将軍家&管領家(将軍を補佐する偉い人)&畿内の守護大名を巻き込んで10年以上続いた権力争いです。応仁の乱までの室町幕府はそこそこ安泰でしたが、ここを境にどんどん弱体化していき、将軍の権威は失われてしまいます。

足利幕府中盤~終盤の将軍は義輝&義昭兄弟の登場まであんまり印象にありませんが、ものすごく大ざっぱな図にすると以下の2つの勢力に分かれます。

この政知ラインと義視ライン、阿波公方を理解するには大事なところですよ💁‍♀️

足利政知(まさとも)

11代将軍・義澄(よしずみ)

12代将軍・義晴(よしはる)

13代将軍・義輝(よしてる)

15代将軍・義昭(よしあき)

足利義視(よしみ)

10代将軍・義稙(よしたね)

初代阿波公方・義維(よしつな)

14代将軍・義栄(よしひで)

2代目阿波公方・義助(よしすけ)

足利政知と義視は兄弟で、どちらも将軍職にはついていません。政知と義視の子はどちらも将軍になっていますが、権力争いは続き、京から追い出したり自分が追われたり。

10代将軍・義稙はアグレッシブな人で、将軍の座を追われて10年以上各地を放浪した後、再び将軍に返り咲いています。正確には10代義稙→11代義澄→12代義稙となりますが、この将軍おかわりはノーカウントとなっています🙅‍♀️

初代阿波公方、足利義維

初代阿波公方となる義維は血筋的には11代将軍の子で、12代将軍・義澄とは実の兄弟ですが、10代将軍・義稙の養子となっていました。ここらへんの関係がややこしいですね💦また、阿波に落ち延びるにあたり義維から「義冬(よしふゆ)」へ改名していますが、ややこしいのでこのページでは「義維」のままとします。

兄・義晴が11代将軍になると、義維は再起をはかるため阿波国の守護(しゅご、後の「戦国大名」とだいたい同じポジション)である細川氏を頼って阿波へと渡ります。

『ここでなんで阿波へ行くの…?🤔』と思ったあなたへ。義維の養父・義稙の妻は阿波国の守護・細川成之の娘で、義維にとって阿波は育ての母のふるさととなるわけですね。

これが阿波公方のはじまりで、義維の子が室町幕府第14代将軍となる義栄です💁‍♀️

この政知・義視ラインを前提にすると、阿波公方家から将軍を輩出することが義稙、義維にとって悲願であったことがわかるかと思います。11代将軍・義澄以降はずっと政知の血筋が将軍となっていたので、政知と義視の代理戦争的な感じですね。

不遇の将軍、足利義栄

 

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大河ドラマ「麒麟がくる」では若手俳優の一ノ瀬颯(いちのせはやて)さんが義栄を演じました。話の流れ的に出番は少なそうですが、我らの阿波公方さまにイケメンのキャスティングありがとうございます👏

義栄は13代将軍・義輝と15代将軍・義昭とは従兄弟の関係。

義輝が暗殺されると、三好三人衆と松永久通(久秀の嫡男)によって14代将軍に担がれました。三好家としてはお飾りの将軍が欲しかったので、義輝の弟よりは義栄が扱いやすいと考えたっぽいですね。

義栄は将軍となるための官位を朝廷から授かり、あとは上洛するのみ!という状況でしたが、なかなか京に入れず…。上洛できなかった理由については、「麒麟がくる」では病気説が採用されていましたが(背中の腫物を治療するシーンがありましたね)、義栄を擁立した三好三人衆と松永久秀が対立していたという事情もあります。

義栄は摂津(現在の大阪府北部)にとどまったまま在位わずか7か月で織田信長にその座を追われ、義昭が15代将軍に就任しました。阿波公方、悲願の公方タイム終了。

その頃の三好三人衆は松永久秀と絶賛対立中で弱体化していて、もはや織田勢を退ける力はなく、義栄は阿波に戻り若くして病死。生年に諸説あるため、享年は31又は29とされています。

義栄は背中に腫物があり、それが原因で亡くなったといわれ、息子に将軍の座をゆずった義維パパよりも早くに亡くなってしまいました🥺

将軍なのに死亡時期すらはっきりしていないので、義昭が15代将軍になる前に摂津で亡くなった説と織田信長に追い出されて阿波に戻った後に亡くなった説など諸説あります。

在位が短すぎたうえに上洛すらできなかったことから義栄の業績はほぼ記録になく、春日大社や朝廷に太刀と馬を奉納した、という話が残っているのみ。。。

将軍なのに上洛できなかった時点でじゅうぶん不遇ですが、「上洛していない将軍とかノーカウントやろwwwww」との声もあり、さらに気の毒度アップ。

ちなみに、歴史上「将軍なのに本拠地に入らなかった将軍」は足利義栄と徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜の2人だけだとか。逆にレアやで😂

「麒麟がくる」がきっかけで、もう少し足利義栄という人物が注目されればいいんですが😢

阿波公方家のその後…

義栄の死去の後、義栄の弟・義助(よしすけ)が阿波公方家を継ぎ、父と兄が果たせなかった上洛の夢を追います。

ところが、阿波公方家をずっと支援してきた阿波細川家が滅亡し、かつての後見だった三好家も土佐の長宗我部元親の阿波侵攻によって滅ぼされました。そして時代は織田から豊臣、徳川へと変わり、武家の頭領も足利将軍家から徳川将軍家へ。これで阿波公方が将軍になる道は完全に絶たれたわけです😢

義助以降も9代目の義根(よしね)が阿波を退去するまで、270年の長きに渡って阿南・平島の地に居住していました。将軍となったのは義栄だけですが、義助の血筋が「阿波公方家」として続いていきます

義根の退去後は阿波公方館は取り壊されたため、現在は☝ご覧のとおりの更地ですが、一部の建物が移築されて現存しています(詳しくは後述)。

蜂須賀家、阿波公方家を冷遇するってよ

阿波細川家が滅び、阿波国は蜂須賀家に与えられます。徳島藩の藩祖となる蜂須賀家政公は、領地内にかつての権威であった足利将軍ゆかりの一族が居住していることを歓迎しませんでした。

蜂須賀家の阿波公方家への処遇は、

  • 阿波公方家には当初は細川家から3000貫の所領が与えられていたものを、蜂須賀家は100石までダウン
  • 由緒ある「足利」姓を許さず、4代目阿波公方以降は地名からとった「平島(ひらじま)」姓を名乗らせる
  • 阿波公方家から藩への取り次ぎ役も家老職から一般職に格下げ

といったもの。

所領に関しては「貫」とか「石」とか額がピンとこないと思いますが、現在の価値に換算すると…??

3000貫=3億6000万円相当
100石=700万~800万円相当

どんなブラック企業も裸足で逃げ出す扶持ダウンっぷりに震えるよね🤔

とはいえ、徳川の世に変わったばかりのこと。元将軍家の末裔を厚遇するとあらぬ疑いをかけられるので無理もないことなんですが、さすがにかわいそうすぎるやろ🥺

扶持は後に100石から950石に、MAX1100石まで増えています。ちょっと待遇改善✨

将軍家の威光にマムシも逃げ出す

多くの家臣を抱える元将軍家がたったの100石で暮らしていける訳もなく、阿波公方は「マムシ除けの札」を売って生活の足しにしていたとか😲

阿波公方4代の義次(1596~1680)のとき、館のすす払いをしていると、床下にマムシなどの死骸がたくさん死んでいたことから、足利将軍家の威光を恐れて毒蛇が死んだといううわさが立ったといいます。この話を聞いて、マムシよけの守札を求める人々が相次いだため、公方家では「阿州足利家」と紙に書き、「清和源氏之後」という朱印を押した札を発行するようになり、義根の代まで続いたそうです。
阿波公方が配ったという守札は、徳島県内各地に伝わり、また、大きさもさまざまです。札を懐に入れて野山に出るとマムシにかまれないとか、ヘビに見せれば追い払えるなどと信じられていました。一般に見られるのは、写真のような形式で書かれたもので、阿波公方の館跡にたつ那賀川町立歴史民俗資料館に展示されている札も同様の形式のものです。なかには、鴨島町の冨樫栄一氏宅に伝わっていた札(当館保管)のように、横書きで「足利家」と大書された珍しいものもあります。
ちなみに、平島では「くちなわ咬まず、はみ咬まず、平島生まれの戌の年の男」と3度唱えれば、マムシに咬まれないという言い伝えがあるそうです。戌年は足利義栄が生まれた天文7年(1538)のことを指しているようです。

「阿波の足利家とまじない」より引用)

この「マムシ除け札」は徳島県内に20枚ほど現存していて、表書きは「阿州足利家」「阿波足利家」「足利家阿州」「足利家」の4種類あり、筆跡や紙質、縦書き・横書きの様式もさまざまなバリエーションがあることから、かなり長期間に渡ってこの札が作られていたと考えられています。

藩主からはとことん冷遇された阿波公方家ですが、阿波の庶民にとってはやはり雲の上の存在。将軍さまの威光を恐れてマムシが死ぬ、とこの札を求めて阿波公方館に列をなしたとか。都から来た足利将軍家の末裔として、畏れ敬われていたそうです👏

飛び出せ!阿波公方

文化2年(1805年)、蜂須賀家の処遇にたまりかねた9代目・義根(よしね)は、病気療養を理由に阿波を出て紀州(和歌山県)へと向かいます。

厚遇はしませんでしたが、かつての将軍家に退去されるのはさすがにまずいと思ったのか、蜂須賀家も書状を出して慰留しています。

☝こちらが阿波公方民俗資料館に展示されている「蜂須賀治昭退去慰留判物」。こちらは足利家の所蔵で、”レプリカ”等の表示がないのでたぶん原本。

当時の蜂須賀家当主・蜂須賀治昭は学問好きで、阿波公方家ともわりと関係が良かったようですが、義根の決意は変わらず。

ところが、紀州藩が徳川幕府から叱られたために士官は叶わず、義根は足利家にゆかりの深い京都へと向かいました。平島姓を足利姓に戻し、先祖が開基したお寺で法要を行ったりしますが、歓迎する宮家も公家もなく…。義栄以降も相変わらず不遇のままだな🥺

阿波公方時代の家臣も親族もやがて離散し、義根は生活に困窮しました。最後は足利家ゆかりの大寺院からの援助で生活する切ない有り様。。。

義根を援助したお寺
・天龍寺(足利尊氏が開基)
・相国寺(足利義満が開基)
・等持院(足利尊氏が開基)
・金閣寺(足利義満が開基)

このうちの「等持院(とうじいん、京都市北区)」は足利氏の墓所で室町幕府歴代将軍の木像がありますが、阿波生まれ阿波育ちの14代将軍・義栄の像はありません。ここでも無慈悲なノーカウントです🙅‍♀️

寺院からの援助と紀州藩からの年200両の仕送りで細々と暮らしていた義根ですが、文政9年(1828年)に80歳で亡くなりました。

200両=現在の価値で260万円相当

義根の死後も紀州藩からの仕送りは続きましたが、明治維新で状況が一変。義根の子・義俊(よしとし)が阿波公方家の華族復帰を嘆願しますが叶わず、京都で帰農して当時の身分制度では「平民」となりました。

帰農(きのう)
農業をやめた者が農業に戻ること、又は都会から地方へ行き農業を始めること。

そのまま阿波に留まっていれば蜂須賀家の家臣としてたぶん「士族」となったはずですが、阿波退去は痛恨のミスとなりましたね。。。

不遇&不運続きの阿波公方家ですが、足利家末裔の各家のなかでは唯一平安時代末期の足利家初代・足利義康からの血脈が続いているそうです(他家からの養子なし)。血脈的には勝ち組ですね。

阿波公方のことなら「阿波公方民俗資料館」

阿波公方の歴史や暮らしぶりがわかる「阿波公方民俗資料館」が阿波公方館跡にあるんですが、残念ながら新型コロナの影響で閉館中でした(訪問したのは8月末なので、さすがに現在は再開しているかも)。

阿波公方民俗資料館
〒779-1234
徳島県阿南市那賀川町古津339-1

こちらはフラッシュをたかなければ写真撮影もOKという太っ腹な資料館。阿波公方家に関する資料が充実しているそうなので、訪問できたら追記します🙇‍♀️

入館料:200円(中学生以下無料)
開館時間:9:00~16:30
休館日:毎週月曜日、祝日

行ってきました🙆‍♀️

10月初旬に改めて行ってきました、阿波公方民俗資料館。

時節柄、入館時には検温と氏名、住所、電話番号など連絡先の記入がありました。
また、館内は土足厳禁で、スリッパに履き替えます。脱ぎやすい靴がおすすめ👌

建物は2階建てなんですが、2階の一室が阿波公方関連の資料展示室となっているため、展示数はそれほど多くはありません。さらに、開館30年の節目に持ち主の方から返却要請があったので、槍など阿波公方ゆかりの武具類20点ほどを返却したため、展示数がかなり減ってしまったそうです💦

人によっては3分ほどで見学終了となるかもしれません。室町時代~戦国時代にかけての歴史や阿波公方にそれなりに興味がないとおすすめできないスポットです🙅‍♀️

メインとなるのが20分程度の映像視聴なんですが、これがめちゃめちゃわかりやすくまとまっていてgoodでした🙆‍♀️苦手だった室町幕府時代の歴史が脳内でかなり整理できました。

ただ、VHSをDVDに焼き直した感じなので画質はガビガビです😂

足利義稙、義維、義栄の阿波公方歴代当主の木造、奥から義稙、義維、義栄の順で並んでいます。【悲報】足利義栄、木造でもスポット当たらず😂

どちらもレプリカですが、左は足利尊氏書の軍旗、右は足利義維が書き写した源氏の白旗で「阿波之公方源朝臣足利義冬謹拝献写」と書かれています。

「八幡大菩薩(八幡大神)」は源氏一門の氏神で、武家からの信仰が篤い武運の神。源氏復興のため、室町幕府を樹立した足利将軍家はとくに八幡信仰が強かったとか。

「麒麟がくる」でも、足利義輝の御座所のシーンでは背後に八幡大菩薩の掛け軸があったり、義昭の上洛シーンでは錦の幟が掲げられていましたね。

手作り感あふれる阿波公方館の模型も。

取り壊されているため規模が想像しにくいですが、かつての阿波公方館はこの史料館がある場所や近くの塚などを含めてかなり広大な敷地があったようです。

1階には阿波公方館の大甍(おおいらか)が展示されています。

これは後述する小松島の地蔵寺から修理の際に譲り受けたもので、阿波公方館の玄関にあった本物の瓦です。高さ2m以上あり、ものすごい重厚感です。これが掲げられていた玄関…阿波公方館の豪華さとスケールが想像できますね😲

個人的にはこれを間近に見られただけで200円の価値がありました✨

こういった史料館にありがちなグッズコーナーは残念ながらないんですが、阿波公方関連の書籍の販売コーナーがありました。個人的にはこの漫画がわかりやすくておすすめ🙋‍♀️

阿波公方の歴史漫画:500円

この漫画のあとがきには

戦前の皇国史観による歴史教育では足利尊氏は後醍醐天皇に叛いた逆賊の名のもとに南北朝の史実を伝えることが明治以来禁ぜられ、逆臣尊氏の子孫ということで阿波公方は世間から抹殺されて来た歴史がありました。

とありました。たしかに、徳島県民でありながら私も本当に最近まで阿波公方の存在を知りませんでした。阿波公方の知名度が低いのにはこんな経緯があったんですね…😢

それにしても、出演シーンはわずかとはいえ一応大河ドラマに初めて「足利義栄」が登場したというのに、阿波公方のおひざ元でも一切盛り上がりがないのが残念です。

最近は神社仏閣の御朱印のみならず、お城でもらえる御朱印の”御城印”ももらえる場所が増えていて、さらには博物館などでも”御朱印風”の記念印がもらえるところがあるので(三重県の伊賀流忍者博物館や長野県の諏訪市博物館など)、阿波公方民俗資料館でも「マムシ除けの札」なんかをモチーフに来館記念印的な感じで何か販売したら多少は話題になったり盛り上がったりするのでは…と思うんですが、どうですか阿南市🙇‍♀️

阿波公方ゆかりの地を訪ねて

阿波公方民俗資料館前にはゆかりの地マップがありますが、ここには載っていないスポットもいくつかあります。徳島県内に今も残る、阿波公方ゆかりの地をまとめました🙋‍♀️

阿波公方墓所 西光寺

阿波公方ゆかりの地といえばはずせないのがここ。西光寺(さいこうじ)には阿波公方家の墓所があります。

西光寺
〒779-1242
徳島県阿南市那賀川町赤池185

義冬の養父・義稙は厳密に言うと阿波公方家に含まれませんが、京を出て各地を転々とし、鳴門で死去したため阿波公方家墓所にお墓があります。

こちらが西光寺にある阿波公方墓所。10代将軍・義稙(右)、初代阿波公方・義維(中)、14代将軍・義栄(左)の3基のお墓が並んでいます👏

義稙と義栄は室町幕府将軍のお墓と思うとかなり質素に感じるんですが、墓石に刻まれた戒名はさすがにいかつい。

義稙:恵林院殿贈一品征夷大将軍巌山道寂大禅定門
義維:慶林院殿実山道詮大居士
義栄:光徳院殿玄山道英大居士

義栄のお墓にも征夷大将軍って書いてあげてよ🥺

西光寺墓地内にも義栄以降の阿波公方家当主や兄弟、母などのお墓が並んでいます。それぞれに誰のお墓かが書かれていてわかりやすい👌

阿波公方家のお墓は全部で23基ありますが、明治と昭和に2度の火災があり過去帳や資料がほとんど焼失。誰のものか判明しているお墓は14基だけだそうです。

私は未拝受ですが、西光寺では御朱印がいただけるそうです!

鳥居と灯籠が残る古津八幡神社

阿波公方民俗資料館から400mほどの場所にある、古津(ふるつ)八幡神社には阿波公方館内にあった3つの神社が合祀されました。小さな神社なので、移設された鳥居の並び方がやや強引でした😂

古津八幡神社
〒779-1234
徳島県阿南市那賀川町古津168

拝殿前に並んでいる灯籠と狛犬。

このうち、いちばん左端の石灯籠が初代阿波公方・義維が奉納したのもので、永禄12年(1569年)に建立されています。こちらは阿南市指定文化財です。

花垣門が移設された吉祥寺

阿波公方民俗資料館前の「面影道」には載ってませんが、吉祥寺(きっしょうじ)の山門は阿波公方館の花垣門が移設されたもの。透かし彫りの装飾には足利家の家紋があります。

吉祥寺
〒774-0046
徳島県阿南市長生町西方556

お寺の裏山は阿波公方家の領地だったそうです。

玄関書院が移設された地蔵寺

こちらも「面影道」には載っていませんが、小松島市の地蔵寺には阿波公方館の玄関が移設されています。

地蔵寺
〒773-0003
徳島県小松島市松島町11-26

足利将軍家の末裔としてのプライドを感じるゴージャスな造りで、かつての阿波公方家の威容が想像できます✨屋根には足利家が朝廷から拝領した「菊の御紋(十六弁菊花紋)」がびっしり。

蜂須賀家には冷遇されましたが、歴代当主の何人かは京の名家の娘を妻に迎えていて、公家からも「元将軍家」としてある程度は評価されていた模様(じゃないと嫁にやらないだろうし…🤔)。

阿波公方家の歴代当主には文化・教養に長けた人物が多く、阿波公方館も現代の「文化サロン」的な役割を果たしたそうです。平島でそのままの姿で残っていて欲しかった…と惜しまれる、素晴らしい建物でした。

雑記
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