寺伝によれば空海(弘法大師)がこの地での修行中に大日如来を感得、一刀三礼して1尺8寸(約55cm)の大日如来像を刻み、これを本尊として創建し、本尊より大日寺と号したという。山号の黒巌山は、この地が三方を山に囲まれ黒谷と呼ばれていたのが由来で、黒谷寺(くろたにでら)とも呼ばれていたという。
荒廃と再興を繰り返し、応永年間(1394年 – 1428年)には松法師により修復がなされ、慶安2年(1649年)には徳島藩2代藩主蜂須賀忠英により本堂を建立して以来、天和・貞享年間(1681年 – 1688年)に再興される。また、元禄5年(1692年)には5代藩主蜂須賀綱矩が、寛政11年(1799年)には11代藩主蜂須賀治昭の篤い帰依を受け堂塔の大修理が行われた
正徳4年(1714年)に真言宗御室派になり明治前期の当寺住職の泉智等は御室派管長になるが、明治20年以降は京都の東寺の末寺となる。
1998年(平成10年)から2015年(平成27年)まで住職を務めた真鍋俊照は仏教美術学者として著書多数あり。
平成の大修理として、2014年(平成26年)より、大師像、弥勒菩薩坐像、三十三観音像、そして本尊・大日如来坐像が順次修復され開帳された。

Wikipedia大日寺(徳島県板野町)より引用)