寺伝によれば弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の勅願により空海(弘法大師)が一寸8分(約5.5cm)の甲冑を身にまとい馬にまたがる姿をしていると云われる勝軍地蔵菩薩を自ら刻み、本尊として開創したと伝えられる。
嵯峨・淳和・仁明の3代の天皇の帰依が篤かった。宇多天皇の頃、紀州熊野権現の導師であった浄函上人が、熊野権現の託宣によって霊木に2尺7寸(約80cm)の延命地蔵菩薩を刻み、前述の勝軍地蔵菩薩を胎内に納めたという。
本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚くかった。当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国で300あまりの末寺を持ったという。しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏の庇護を受け、歴代住職や信者の尽力により再興された。

Wikipedia地蔵寺(徳島県板野町)より引用)