四国八十八か所霊場第33番札所雪蹊寺(せっけいじ)は高知市にあり、高知県の観光名所・桂浜からもすぐ近く。
土佐の戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の菩提寺で境内には嫡男のお墓もあり、戦国武将ファン必見のお寺です。すぐ隣に秦(はだ)神社もあるので、長宗我部元親ファンな方は合わせてお参りしてみては。
境内はそれほど広くはなく、四国霊場ではわりと質素な印象のお寺ですが、戦国時代・幕末・終戦といろんな時代の歴史にふれることができました。
雪蹊寺へのアクセス
周辺に案内標識が複数あり、場所はわかりやすいです。
雪蹊寺の駐車場
お寺の前に普通車10台分の駐車場がありますが有料(普通車100円の志納制)となっていて、料金は納経所で納めるシステム。あまり広くない道路沿いにあるので、やや駐車しにくいです。
公共交通機関でのアクセス
最寄駅からの距離があるので、車以外で行く場合はバスがおすすめです。
・とさでん交通桟橋線「桟橋通五丁目」停留所で下車、5.1km
・とさでん交通長浜行き・桂浜行きに乗車し「長浜」バス停で下車、300m
前後の札所
32番札所禅師峰寺から7.5km
34番札所種間寺まで6.3km
雪蹊寺の御朱印
本堂の左手に納経所があり、そこで御朱印をいただけます。御本尊のほか、雪蹊寺では土佐西国三十三観音霊場第20番札所の御朱印もいただけます。
雪蹊寺の御影
雪蹊寺で納経をすると、御本尊のお姿を描いた御影(おすがた・おみえ)が無料でいただけます。
カラーの御影をいただく場合は別途200円が必要です。
雪蹊寺の納経受付時間
雪蹊寺の納経受付時間は7:00から17:00までです。
雪蹊寺について
寺伝によれば空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。
『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。
寺に伝わる毘沙門天および両脇侍像は、毘沙門天像の足枘銘から湛慶の真作と判明し、高福寺創建の嘉禄元年(1225年)頃の作と推定されている。ただし、湛慶作の仏像が都から遠く離れた土佐に伝わった経緯は定かでない。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという伝承もある。
その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 – 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した。
江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した。
明治時代になると廃仏毀釈により明治3年(1870年)廃寺となり、翌年、後方に隣接して当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社が建立された。その後、大玄和尚により復興した。なお、その間の納経は、31番竹林寺で「高福寺」の名でされていたという。
(Wikipedia雪蹊寺より引用)
・天正年間に雪蹊寺を復興させた月峰和尚はたいへんな豪傑で、「幽霊が出る」とうわさされた廃寺に寝泊まりして幽霊を成仏させたという逸話があります。
・「雪蹊寺」という寺号は長宗我部元親の戒名「雪蹊恕三大禅定門(せつけいにょさんたいぜんしょうもん)」からつけられました。この戒名は生前につけられたもので、「恕三」は元親が自分で考え、「雪蹊」は臨済宗の禅僧から授かったと伝わっています。
・開基当初は「高福寺(こうふくじ)」、天正年間の復興時には「慶運寺(けいうんじ)」と号していました。有名な鎌倉時代の仏師・運慶とその長男が寺号を改めたという伝承があるとか。
正式には高福山(こうふくざん)高福院(こうふくいん)雪蹊寺(せっけいじ)といい、臨済宗妙心寺派のお寺です。
雪蹊寺の御本尊
雪蹊寺の御本尊は薬師如来。鎌倉時代の仏師・運慶の晩年の作で、国の重要文化財に指定されています。
脇侍の日光・月光菩薩を始め、雪蹊寺には「鎌倉仏像の宝庫」と呼ばれる16体の名品がありますが、事前に予約すると拝観できるそうですよ。ちなみに、仏像は本堂ではなく本堂奥にある収蔵庫に安置されています。
拝観料:志納制
雪蹊寺の見どころ
太玄塔
門を入ってすぐ、目に入る謎の「太玄塔」と書かれた石。こちらは山本太玄(17代住職)と山本玄峰(18代住職)の供養塔で、題字は玄峰師によるもの。山本太玄師は廃仏毀釈によって廃寺となった雪蹊寺を復興させた人物です。
「昭和の傑僧」と名高い山本玄峰師が若い頃に遍路の途中行き倒れになっていたところ、当時の雪蹊寺の住職・太玄和尚(山本太玄)に救われたという逸話があります。
山本玄峰師とは
雪蹊寺には山本玄峰師の胸像もあります。
山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日(1866年3月14日) – 昭和36年(1961年)6月3日)は、和歌山県本宮町生まれの禅僧。生涯を通して、四国八十八箇所遍路を最晩年まで続け17回に達した。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後も象徴天皇制を鋭く示唆する。
(Wikipedia山本玄峰より引用)
ぜんぜん知らなかったんですがこの方かなりすごい人で、昭和の政治家や著名人、実業家とも親交があります。詳しくはWikipediaをご覧ください。
山本玄峰師は若い頃に病気によってわずかに光が感じられる程度まで視力が低下。すがるように四国遍路を始めますが、雪蹊寺前で行き倒れてしまいました。当時の雪蹊寺住職・山本太玄に諭されて出家し、18代目住職となります。
その後、臨済宗妙心寺派の管長(宗派の代表)となりました。
龍馬の師匠のお墓
参道には無縁仏さん?の墓石がいくつも並んでいますが、その中のひとつも雪蹊寺の見どころ。下段の左端に「土居保墓」「土居保妻墓」と書かれた2つの墓石がありますよね。
こちら、坂本龍馬の剣の師匠である土居楠五郎(保)と奥さんのお墓だそうです。
長岡郡(当時)にあった土居家の墓地を移転する際、一族の墓とともに雪蹊寺に移されたとか。雪蹊寺は龍馬ゆかりのスポットでもあります。
見どころが多い本堂
現在の本堂は平成16年(2004年)に改築されたもので、まだピカピカでした。
雪蹊寺の鰐口(わにぐち)は珍しい木製!
一般的な金属でできた鰐口は澄んだ高い音がしますが、こちらは木製なので少しこもった味わい深い音がしました。鳴らすのが難しかったです。。。
本堂には賓頭盧(びんずる)尊者もいます。
「びんずるさん」と呼ばれるなで仏で、自分の体の悪いところと同じところをなでると病気が治ると信仰されています。本来は生命力みなぎる赤いボディの像ですが、こちらは銅像なので落ち着いたブルー系。寒色のびんずるさん、意外と珍しいんじゃないでしょうか。
珍しく台座の前面に奉納者が大きく刻まれていますが、「摂津国西宮町遊郭中」とあり、こちらは遊郭で働く人たちが奉納したものだそうです。
★「摂津国西宮町」は現在の兵庫県西宮市にあたります。
びんずるさんの隣には河童のような謎の生きもの。めっちゃかわいいお遍路姿です♡
ヴィンテージ感ある大師堂
比較的新しい建物が多い雪蹊寺のなかで、おそらく最古と思われる建造物が大師堂です。こちらは明治43年(1910年)に建立されたもの。
観音堂
納経所の隣には昭和6年(1931年)に改築された小さなお堂があり、馬頭観音がお祀りされています。こちらが土佐西国観音霊場の札所本尊となので、御朱印をいただく場合は忘れずにお参りを。
★馬頭観音は旅の安全を守るといわれるため、お遍路さんが道中の安全を祈願するとか。
安産子安地蔵
平成16年(2004年)に改築されたばかりのオープンなお堂にお祀りされているのは小さなお地蔵さん。「安産子安地蔵」として信仰されています。
お稲荷さん
観音堂の奥には真っ赤な鳥居があり、小さなお宮にお稲荷さんがお祀りされていました。
小さいながら凝った彫刻がたくさんあり、とても立派なお宮でした。
長宗我部信親公墓所
本堂と大師堂の間にひっそりと書かれている「長宗我部信親公墓所へ←」という案内。知らないと見落としてしまいそうですね。
渡り廊下の下をくぐると、奥に墓所が見えてきます。勝手に入っていいのか不安ですが、とくに「立入禁止」のような表示はなかったです。
長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)は長宗我部元親の嫡男。幼少期から聡明であったため父から溺愛されて育ちますが、その期待に応えるように立派に成長し、家臣や領民からも慕われる人物でした。
信親の”信”の字は織田信長から授かったものといわれ、織田信長は立派に成長した信親を『養子に迎えたい』と述べた、という逸話もあるほど。
信親は文武に優れた、まさに”長宗我部家期待の星”でしたが「戸次川(へつぎがわ)の戦い」によって22歳の若さで戦死してしまいます。信親の死が長宗我部家没落のきっかけとなりました。
天正14年4月5日、豊後の大友宗麟は豊臣秀吉に大坂で面会し、島津義久が豊後に進入してきたことを訴え救援を求めた。秀吉はこれを了承し、黒田孝高に毛利の兵を総括させて先発させ、さらに讃岐の仙石秀久を主将にし、長宗我部元親・信親を加え豊後に出陣を命じた。
島津家久が豊後に侵入し、大友氏の鶴ヶ城を攻撃した。12月11日、仙石秀久と長宗我部信親は、これを救援しようと戸次川に陣をしいた。戦略会議において仙石秀久は川を渡り攻撃するべきと主張した。
これに対して長宗我部元親は加勢を待ちそれから合戦に及ぶべきであるとして、仙石の作戦に反対をしたが、仙石は聞き入れず、十河存保も仙石に同調した。このため川を渡って出陣することになり戦闘は12月12日の夕方から13日にかけて行われた。信親は仙石の決定を批判し、家臣に対して「信親、明日は討死と定めたり。今日の軍評定で軍監・仙石秀久の一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨む狐のごとし。全くの自滅と同じ」と吐き捨てたという。
合戦当日、先陣の仙石の部隊が真っ先に敗走したため、長宗我部の3千の兵が新納大膳亮の5千の兵と戦闘状態になったが、元親と信親は乱戦の中に離ればなれになってしまった。元親は落ちのびることができたが、信親は中津留川原に留まったものの、鈴木大膳に討たれた。享年22。信親は桑名太朗左衛門に退却を促されたが引かず、四尺三寸の大長刀を振るい8人を斬り伏せた。敵が近くに寄ってくると長刀を捨て、今度は太刀で6人を斬り伏せたとされる。信親に従っていた700人も討死にし、十河存保も戦死し、鶴ヶ城も落城した。
戦後、元親は信親の戦死を悲しみ、谷忠澄を使者として島津の陣に遣わし、信親の遺骸をこい受けて、高野山の奥の院に納めたが、のちに分骨して高知市長浜の天甫寺に埋葬した。
(Wikipedia長宗我部信親より引用)
「戸次川の戦い」のあらすじは、
- 大友宗麟を救援するため、讃岐の戦国武将・仙石久秀とともに豊後(大分県)に出陣した長宗我部親子。援軍を待つべきと主張する長宗我部親子の話を仙石久秀は聞き入れず、そのまま戸次川(へつぎがわ)を渡って進軍することに。
- 地形的に川を渡っての進軍はそもそも不利だったうえ、アドバイスをガン無視したくせに当日は仙石軍がまっさきに敗走するという無能of無能。
- 混乱のなか長宗我部親子は離れ離れになってしまい、元親は逃げ延びたものの、信親は奮闘むなしく討死。
という感じ。信親かわいそう。
元親は大切な嫡男を失ったことにより、”人が変わった”といわれるほど荒れ狂って家中を混乱させ、戸次川の戦いから12年後に病死しています。
★「高知市長浜の天甫寺に埋葬した」とされる遺骸は長宗我部家滅亡後、雪蹊寺に移されたとか。
小坊主くん
ニュータイプとともに大師堂前にたたずんでいました。
まとめ
雪蹊寺は明治の初めに廃寺になっていたため、境内は比較的新しいものしかなく質素な印象のお寺でした。その一方で、濃い歴史があるので、戦国時代から昭和にかけての歴史に触れられるポイントもあります。
- 長宗我部元親の嫡男・信親の墓所
- 坂本龍馬の剣の師匠・土居楠五郎のお墓
- 臨済宗妙心寺派の管長を務めた山本玄峰師の供養塔
長宗我部家ゆかりのお寺なので、戦国武将好きな方にはとくにおすすめ!
納経所の隣、ひそかに天女絵があるという観音堂は土佐西国三十三観音霊場の札所本尊の馬頭観音をお祀りしていて、雪蹊寺では土佐西国霊場の御朱印もいただけますよ。
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おすすめのお立ち寄りスポット
雪蹊寺のすぐ隣には秦神社があります。長宗我部元親を祭神とする日本で唯一の神社で、境内には元親の四男・盛親(もりちか)の慰霊碑があり、御朱印は長宗我部家の家紋入り。